久しぶりに一人っきりのゆっくりした朝。近所のホテルのラウンジに。
ホテル向かいのモスバーガーで時々食事すると、よく外国人ファミリーを見かける。ここで宿泊しているのかな?
私は小さい頃から、常に今いるところから外へ行きたいと思っていた。
小さい頃ほど冷静で、周囲を観察していた。
幼稚園の頃母の具合が悪い日に私を代わりに迎えに来てくれる人がいると、
「あの人と帰り道何を話して時間を繋げばいいのか?彼女が喜ぶ話題は何なのか知らない中で。」
などと考えていたような園児だった。
いつも母や他の母親たちが帰りに自転車を押しながら、長々と立ち話をしているのを間で見ながら、
「園児には語彙が足りなくて、(勿論その時にはボキャブラリーなんて言葉は知らなかったけど)なにを話しているのかわからず、もっと大きくなったら把握したい。」
そう思っていた。
そうしたら2年後くらいには日本語力がついてあっさりわかり、
「夢にまで見た、大人の女性が夢中になって話している内容は、こんなにもくだらなかったのか!ガーン!」
すごくがっかりした私だった。
子供の頃にわからなかったものが、少しずつ解明されていくに従って、襲ってくる落胆をぬぐい去りたくて、
伝記ものをよく読んだ。
伝記ものには、偉人の幼少時代が描かれていて、子供の私は、その描写に親近感を覚え、新しい世界の可能性を見て、自分の視野を広げようとしていたように思う。
今自分の目の前に見える状況だけが全世界ではない。
自分が生まれてきたこの星の多彩な生き方を探索しよう。
もしそれで、物理でも得意になっていたら良かったのだけど、
残念ながら数字はまったくだめで、
作文の機会がある時に、
常日頃の疑問などを織り込みながら、
多分あれは大人に読んでもらいたくて、そういう思いで、提出していたのだろう。
他の科目は出来なかったけど、
大人が出席してくるような会に行きたかった。
級友たちが喧嘩していたり、対立していたり、物を貸す貸さない誰が先に使うとか後に使うとか、
それ先生に聞いたの?いいって言ったの?とか、
そういうすべての事が、
これらを一緒に周りにあわせてやる時期を一般的に子供としては抜かせないのかどうか?
その自由はあるのか、あるならばそれもまわりとの軋轢を覚悟でという感じか?
などなど、
今になって言語化するとそんなことを日々思っていた。
19歳で初めて生の英語の世界を知り、
英々辞典を読み続けるうちに、
こんなクリアーに定義を表示するような世界があるのか、
子供の頃は幼児でいなければいけないような風潮のある日本語と違って、こんな風に積み重ねていける言語があったのか、この言語を使用している人達の日々の運営方法にはどんなものがあるのだろう?
そんな好奇心で、英語に興味を持った。
今は、かなりのものは、「人による」文化よりも人による、言語よりも、人による、と思っているけれど。。。。。
稲荷山公園。
何にもない公園が好き。